タイピング練習

タイピングの練習のために始めました。嘘ではないです。

煙草があれば格好がつくのに

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逆にセーフ(見えてないので)

 

ご無沙汰です。2019年の4分の1が一瞬で溶けたような気がしています。

突然ですが皆さんは喫煙に対してどんな印象を持っていますでしょうか。好きで吸ってたり、吸ってるけど嫌いだったり、周りが吸うのも嫌だったりと人によって様々でしょう。

しかし、世間的には''アンチ煙草''の風潮が日に日に強まってきています。それはもう間違いなく。私もそんな世間に流されるまま、煙草を吸うことなく生きてきましたが、歳を重ねるにつれ「あぁ、ここで煙草があれば格好がつくのになぁ」と思うことが増えてきました。今回は、そんな喫煙に憧れる非喫煙者のお話です。うぇいよー。

 

私自身が非喫煙者のため、煙草を吸うことは完全にファッションだと捉えており、味だとか頭がスッキリするだとかの効果には全く憧れがない。即ち、''喫煙を通じて得られる何か''ではなく''喫煙をすることそのもの''に憧れを抱いているのだ。

もう少し話を具体的にしよう。大勢での飲み会が落ち着いてきて、それぞれ小さいまとまりで話を始める時間を想像して欲しい。(ちなみに私はこの時間が非常に好き) このとき、手がめちゃめちゃに暇になる。さっきまでは盛り上がっていて気にすることもなかったけれど、いざしっぽりしてみると両の手の余ること余ること!こんな時、煙草があれば問題ない。人差し指と中指で煙草を挟んでプラプラさせておけばそれで格好がつくのだ。一方私はと言えば、おしぼりの袋を結びまくり、箸袋をやたらと折る。飲み会の終わりごろになると、私の周りにはだいたい3~5個の結ばれたビニールと、めちゃめちゃに折り目のついた箸袋が転がっている。

これはよく考えなくとも恥ずかしい。テーブルの斜め向かいでは大人びた手つきで灰皿が埋まっていっているのに対して、私は幼稚園児レベルの手遊びをしているのだ。あぁ、私も煙草を吸って格好をつけたいなぁ…と密かな憧れが募るばかりである。

こんな具合で、私は煙草をカッコつけの道具としてしか捉えていないので、そのために世間からの悪評と少なくないお金をかけるのは気が進まない。というか、世間からの悪評を受けてまでしたいことってなくないか?

品と行儀と世間体は良くありたいものですね。今年もよろしくお願いします。

ウォシュレットの水圧を今すぐ統一しろ

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合格しちゃうんすね、1級

 

今年も残すところあと1ヶ月と少し。2019年はすぐそこであり、即ちオリンピックも着々と近づいてきている。世間ではボランティアの条件が過酷すぎるだの何だのと騒がれているが、より急ぎの、重要な案件があることに気づいてしまった。タイトルにもある通り''ウォシュレットの水圧問題''である。

このままオリンピックを迎えてしまったら、訪日した外国人観光客のアナルが不用意に弄ばれ、彼らは怒って帰国してしまうだろう。その後、日本は国連から追放され、全ての貿易関係を絶たれるに違いない。そんな最悪の事態を避けるべく、日本のウォシュレットが抱える問題をここで指摘してゆきたいと思います。ふんぬらば!

※既に手遅れですが、この記事には便器やウンコがクソほど沢山でてきます。不快感を与えますこと、ご了承ください。

 

まず、私がこの問題に気づいた経緯を説明する。ある日の通学中、ふと便意を催した私は、最寄りのLAWSONに駆け込んで事を済ませた。その後、いつも通り水圧が''中(3段階の2番目)''になっていることを確認して、ウォシュレットのボタンを押した。すると、

 

ズボボボボボ!!?、!?、?

 

死ぬかと思った。3段階のうちの4ぐらいのヤツが来た。太鼓の達人でいうところの鬼。実家のトイレは5段階なのだが、明らかに我が家のレベル5よりも強かった。しかもLAWSONはまだレベル2なのだ。「ふふふ、俺は更にもう1つ進化を残しているゼ」2番目に灯っていたライトは、そう言ってほくそ笑んでいる。

そろそろ頭がおかしくなってきたので話を戻しますが、日本のウォシュレットやばくないですか?我が家の5がローソンの2って。あまりに基準がブレブレすぎる。仮にあのローソンのトイレで育ち、アナルを開発されてきた人は、我が家のトイレでは到底満足できないはずだ。そうなれば、引越しの際にはウォシュレットの威力が最優先事項になるだろう。不動産屋は風呂とトイレが別かどうかなどは気にしなくなり「築浅で駅徒歩3分!最強ウォシュレット完備!」といったチラシが蔓延する世の中になる。トイレで満足できないって何?

 そろそろ皆さんも危機感を感じ始めたことであろう。たまに当たるくそ弱いウォシュレットにやきもきしたのを思い出したり、ランプが灯らないために今がどの強度なのか分からない最悪のウォシュレット(マジで意味が分からない)に恐怖した記憶が蘇ってきたはずだ。なぜウォシュレットのせいでこんなにも不安にならなければならないのか。結論はすでに出ている。水圧に一律の基準が設けられていないからだ。

まとめると、日本のすべてのウォシュレットは水圧が統一されるべきである。また、水圧に大きく開きがある現状を鑑みると、最低でも5段階、できれば10段階での調整が求められると思う。この問題提起が何かの手違いでTOTOの偉い人の目に留まり、これ以上トイレで悲しい思いをする人が増えないことを切に願う。ちなみに私のトイレでの最悪の思い出は、幼稚園児の時に興味本位で”ビデ”のボタンを押し、予想だにしない角度からの水流に飛びのき、トイレを水びたしにしたことです。あるあるだと思いたい。

真・きのこたけのこ戦争

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違法薬物じゃねーか

 

ウェイ、陽キャパリピの方々をカースト最下層からネチネチと見下していくことを得意とする当ブログ。今回もそのような健全な人達に難癖をつけることで、自分の歪んだ価値観の正当化を図りたいと思います。

皆さんも1度は経験されたことがあるのではないでしょうか。きのこの山たけのこの里のどちらが優れているかを決める論争。いわゆる「きのこたけのこ戦争」ですね。私自身、あだ名が''きのこ''だったこともあり、この論争については何度も経験して来ました。今日はこの不毛な争いに終止符を打つべく、マジの考察をしてゆきます。しゅわっち。

まずはこの論争における私の立場と考えを明らかにすると、キノコとタケノコどちらも大差ない派である。というか、人類の95%がこの立場だと私は確信している。同じ会社が出している、同じ価格帯の、似たようなチョコスナック菓子でそんなに好き嫌いが分かれる訳がないだろうがバカタレ。「おれきのこ派~」とか「うわ、ないわ。普通にたけのこやろ」とか「わかってないわ~」とかうるせぇ。分かってないのはお前。どっちも大差ない。コンソメパンチと九州しょうゆぐらいの差しかない。ちなみに私はどちらかと言えばコンソメパンチより九州しょうゆが好き。

つまりはそういうことで、どちらも好き(もしくはそうでもない)けれど強いて言うならこっちの方が好き。というのが大半の人々の考えだと思っている。先ほども言ったように、菓子としてかなり似ているため、それは当然の事なのだ。

しかし「どちらも美味しいんだから、無駄な争いは止めましょうよ」などと訴えたところでこの戦争は終わらない。なぜなら、この戦争の本質はもっと他のところにあるから。

では本質とは何か。きのこたけのこ戦争に参加する人が求めているのは、自分の派閥がより優れた菓子であることを証明することではなく、ガヤガヤと議論をしてその場で盛り上がることだと私は考える。即ち、争うことそのものが目的であるから、それを止めようとすることが最も愚かな行為だと言えるのではないだろうか。

終止符を打つと偉そうに言っておきながら、この争いは止められませんと結論づけてしまったけれど、マジの考察だから仕方がない。こんな平和な争いで世界が包まれればいいなと、Love&Peaceとのことで、失礼します。

妥協点は見つけるものではない

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英語圏には気をつけるという概念がない

 

あっちぃ。マジで酷暑。この暑さのなか活動させるのは、酷っしょ。ヤバすぎて見つめるのは、虚空っしょ。

サムいことを言ってみたものの、全く体感温度は下がらず、むしろ不快指数が上昇。大変失礼致しました。今回はそんな暑い夏にお届けする、アツいお話です。どすこい。

 

''妥協点を見つける''といった言い回しをよく耳にする。それはある意味で正しく、我を通すだけでは世の中上手くいかないし、世界は自分のために回っていないし、人間は1人では生きていけない。そういった譲り合いの精神を学んで、私達は大人しくオトナになっていく。その流れに抵抗せんとするパンクな精神に、眩しいけどちょっと疲れるなと感じる程度には、私もオトナになった自覚がある。それでもあえて言いたい「妥協点は見つけるものではない」と。

まず、私にとっての妥協点とは''相反する2つの要素の効能が、それぞれ最大限に引き出される地点''である。最大限というのがポイントで、2つの内どちらかが立場を譲るのではなく、その2つをバチバチにぶつけ合うことで自然に生じるもの。それが妥協点であると思う。

例えば、部活動のキツイ練習をサボりたい場面で考えてみる。この場合、より自分を高めたいとする向上心と、楽をしようとする怠惰心(そんな言葉はない)が相反する2つの要素である。この書き方だと、向上心が善で怠惰心が悪のように思えるが、必ずしもそうではない。向上心とは、より高い次元を目指そうとする姿勢であり、現状において日常生活を問題なく送れている私達にとっては、本能的にムダなものとも言えるからである。即ち、生命を維持するため以上の努力は、本能的にムダなものであり、むしろ余分なエネルギーを使う悪と捉えることもできるのだ。

妥協点に話を戻すと、向上心と怠惰心の妥協点は、心身に支障を来たさないギリギリまで努力をしたところにあると言えるのではないか。向上心の目的はより強くなること、怠惰心のは安全な生命活動を守ることであるから、それぞれの目指すものを最大限に達成するためには、そのギリギリを攻める必要がある。この場合、人為的に左右できるのは向上心の方であるため、可能な限り怠惰心に逆らって到達できた地点が妥協点になる。

以上の例にみたように、妥協点とは目標として"見つけるもの"というよりも結果として"見つかるもの"と表現すべきだと私は考える。先に妥協点を見いだそうとすると、どうしても限界の手前でストップしてしまい、真の妥協点にたどり着けない。妥協点を探そうとする行為が、到達点を引き下げてしまうことになるのだ。

ここまで書いてきて、努力することがいかに難しく、またいかに反自然的な行為であるかを改めて思い知った。そもそも文明が発達し、生存のために必要な労力が減ったため、努力などと言う無駄なことをする時間が生まれてしまった。文明を全部ぶっ壊してしまえば、朝から晩まで生命維持の本能にしたがって動き続ければよくなり、クソめんどくさい妥協点の概念もなくせるかもしれない。

 

でも、やっぱり努力して自分を高めるのって、ハチャメチャに気持ちいいんすよね。。。

テスト勉強はどうぶつの森じゃない。

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顧客を容赦なくディスる広告。あと効果薄め。

 

世間はテスト期間真っ只中。テストがなく暇だけれど、周りの人はテストで忙しそうだし誘うのは申し訳ない。というよりも賢い私は、そもそも気軽に声をかけられる友人が少ないことを知っているため、今日も1人でブログの更新に精を出すこととする。助けてくれ。

タイトルを見た人は、こいつは何を言っとるんだと思ったことでしょう。テスト勉強≠どう森。なにを分かりきったことを。てかどう森懐かしいですね。さっきホントに起動してみたところ、リセットさんが出てきたのでブチ切りました。負の連鎖は終わらない。さて話を元に戻して、今日は当たり前の事実である「テスト勉強≠どう森」論をつらつらと述べてゆきます。ご覧あれだなも。

テスト勉強がどう森ではないことなど、誰もが知っていることである。というよりも、2つの共通項を探すことの方が難しいのでは、とさえ思える。そこで単刀直入に、多少イヤミったらしく言わせてもらう。どうぶつの森はゴールを各々で定める''自己満足ゲー''だといえよう。そしてテスト勉強を同じく''自己満足''で終わらせている人が、以外と多いのではないか。

どう森の世界には、明確なゴールというものが存在しておらず、住人達とのんびりスローライフを送ることを目的としている。ムシやサカナをコンプリートしたり、ハッピールームアカデミー(部屋に点数つけるやつ)で高得点をとったりするとアイテムが貰えるが、それが究極のゴールではないのだ。

一方でテストには、満点という明確なゴールが設定されており、テスト勉強の目的は、満点により近い点数を叩き出すこと以外にはない、いわゆるスコアゲーである。しかし、そのことを本当に理解していない人が周りに結構な数いるのではと思う。例えば、キレイなまとめノートを作ることに夢中で頭に入ってない~というお決まりをはじめ、何時間勉強したかを目標にする人、徹夜''すること''に満足している人など、色んな人を見てきた。

この人達がやっているのは、サカナ図鑑のコンプや、レアな洋服探しであって、スコアゲーであるテストの本質を見誤っている行為だと私は思う。テスト勉強は高得点をとるためのもので、それ以上でも以下でもない。高校時代にこれを自分なりに理解し、意識できていたことは、私の人生に大きくプラスになってきたと思う。

ただこれを徹底してきたおかげで、友達とジョイフルで勉強会♪みたいなことを経験できなかったことが、唯一悔やまれるが、、、

そもそも誘われたことがなかった。助けてくれ。

日清は食わせようとしてない

言いたいことはそれだけ。

 

日清カップヌードルのCMときたら、、

こんなのとか

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こんなの

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アオハルシリーズに

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最近はEXILE?のケンカものまで

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全く食欲が湧かない。食わせようとする気概が感じられない。察するに、日清はカップヌードルに対して、食品としてではなく、カルチャーの担い手としての役割を持たせようとしているのではないか。We are cool Japan.

これ以上言いたいこともないので、今回はここまで。

アンチ高所恐怖症

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ガリガリ君をmlで数えんな

 

どう思いますか?高所恐怖症について。正確には「ワタシ、マジで高所恐怖症なんだよね〜」と言う人について。私はあまり好ましく思ってないです。ウソです。うるせえと思ってます。

高所が怖いことの何がいけないのか、何もいけなくない。そうではなくて、高い所が怖いことをアイデンティティにすんな。そう、これです。高所恐怖症はアイデンティティたり得ない。アピールするべきことではない。このことについて言及してみます。おっしょい。

まず、高所恐怖症とは何かを考えてみる。文字通りにみるなら、高い所に恐怖を感じる症状であるが、富士山への登山を高所恐怖症に断る人がいたらどうだろうか。いまいち納得がいかないのではと思う。一方で、富士急ハイランドへの誘いは、高所恐怖症の一言でなかったことになるだろう。つまり、高所恐怖症の人は位置エネルギーが大きいことを怖がるのではなく、高い所から落ちて死ぬことが怖いのである。

人は根源的に生への欲求をもっている。それはひっくり返せば、人には死を避ける本能があるとも言える。すなわち、人は基本的に全員''死恐怖症''であり、高所恐怖症もこれから派生したものであると考えられるのではないか。となれば、人類は全員が高所恐怖症であり、それは生命を守る上で当然のことなのだ。

しかしそれでは、ジェットコースターを満喫する人もいれば観覧車にさえ乗りたくない人もいる現実をどう説明するのか。答えは簡単で、高い所が怖い人は危険に対して敏感で、小さなリスクを極端に意識して不安になってしまう人である。そしてこういう人は一般に''心配性''と呼ばれるのだ。

これらをまとめると、人類は基本的に全員が高所恐怖症であり、私達が高所恐怖症としている人は、正しくは心配性と呼ぶべきである。となる。

したがってこれからは「ぬわぁたしいいぃぃぃぃぃぃ、マヂで、こ~しょきょうふしょおぬわんだょにぇぇぇー笑」と、私かよわいですアピールをする女は即刻ぶん殴りましょう。人類みんなそうだっつーの。

あと、高所恐怖症って正しくは心配性って言うべきじゃない?とか言ってるやつもぶん殴っていいです。キモいし意味が分からないので。