タイピング練習

タイピングの練習のために始めました。嘘ではないです。

生きるために生きなくても

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なにわろとんねん

 

暑い。暑すぎ。梅雨明けて即真夏日。初夏はどこに行ったのか。最近はホントに暑すぎるせいで、脳みその半分くらいが「暑い」で占められていて、何も考えられない。食欲も減衰してるし、そもそもなぜ飯を食わねばならんのかとさえ思う。飯を食って生き永らえたとして、明日は今日よりも暑いのに。クソ暑い→食欲減→ムリして食べる→クソ暑い明日始まる→…の無限ループを生きる我々に救いはないものか。

今日はその問いの答えを、カゲロウ(昆虫)から見出してみようと思います。なぜか?それは夏だからです。夏といえばカゲロウ。色んな異論があるのは分かっていますが、話を進めます。わっしょい。

カゲロウを一言で言うなら、飛ぶのが遅いトンボ。トンボみたいな見た目なのに、弱々しくパタパタ飛んでるやつ。そう、そいつだ。カゲロウは儚さの象徴でもあるのだが、それはカゲロウが成虫になると口が退化してしまい、何も食べられず約1日で命を落としてしまうことに由来する。つまり彼らにとって、成虫になること=死ぬことになるのだ。

ではなぜ自ら死の淵に立つような真似をするのか、もちろん子孫を残すためである。彼らは自分の生きがいとか、人生の充実とかそんなことは(たぶん)考えてない。できるだけ多くの子孫を残すことに、文字通り命を賭けるのである。

これだけの猛暑にウダウダと悩むなどナンセンスである。ここはひとつカゲロウを見習って、子孫を残すことにだけ執着する夏にしてみるのも良いのではないだろうか。所詮我々も地球に生息する生命体のひとつに過ぎないのだし、食事も睡眠もそっちのけで子種を撒き散らしまくって、その命までも儚く散らそうぜ!!

 

こちらよければ使って下さい、

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AIは勝負の土俵に立てない

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いかにもイカっぽい

 

最近、AIだIoTだビッグデータだと騒がれていたのが落ち着いてきたように感じる。近未来は、いつの間にかしれっと現代に変わっていた。

特に、囲碁・将棋界において、AIが世界に名高い名人を破ったことは、ニュースでも大きく取り上げられ印象に残っている。しかし…

そんなに騒ぐことか?

これが私の正直な感想。その機能に特化させた機械に人間が勝てるわけがない。逆によく今まで人間が負けなかったと思う。佐藤天彦さんパネェっす。天彦て、もう名前が強い。四天王の4人目の名前してますやん。

などと思っていたら、ネットラジオで私と同じようなことを、私よりも上手に表現している人がいた。曰く「車がボルトより速く走ったからって、騒がないじゃないですか。」とのこと。衝撃を受けた。それだ!

ボルトとレーシングカーで速さを競っても、勝負にならない。それは、レーシングカーが速すぎるためではない。初めから土俵が違うため、そこに勝利も敗北も存在しない。文字通り''勝負にならない''のだ。

だいたい、勝ち負けって、試合の結果だけじゃない。試合を観終わった観客の気持ちとか、俺自身の気持ちとか、そういうのも含めて、勝たないと。」(伊坂幸太郎 週末のフール 集英社文庫より)

高校でハマった伊坂幸太郎が、私の勝負観に大きな影響を与えている。私にとって勝負とは''そういうもの''なので、機械であるレーシングカーと人であるボルトとの競走は、私の思う勝負の領域には入らない。

そして、これと同じことがAI対プロ棋士にも言える。過去の棋譜全てをインプットし、一手一手を検索するだけのAIに、戦いの前夜に不安で眠れなくなることのないAIに、そして色々な選択肢を切り捨てて、将棋に生きる決断を下してきた過去を持たないAIに、「勝負」はできない。いや、できてたまるかと強く思う。

もちろん、技術の発展は凄いことだと思うし、開発に携わった人たちの苦悩もあるだろう。だからといって、棋士がAIに敗れた事を騒ぎ立て、棋士の存在意義が~などと言うのは、前述のような理由から間違っていると思う。AIは棋士にとって代わることはできない。なぜならお前はどれだけ将棋が強かろうと''勝負に勝つ''事ができないから。

 

※この人のことではない

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【性善説】悪役にはストーリーがある。

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だまし絵かと思いきや、普通に降りてた。

 

先日、ある知人から「お前は世の中の人をみんないい人だと思ってそう」と指摘された。

びっくりした。正直な話、自分でもお人好しな側面があることは自覚していたが、こうもハッキリと他人から言われたショックは、予想外に大きい。この指摘を引きずっているうちに、私自身が性善説性悪説のどちらを信じるか、自分なりの基準を持っていないと気づいたので、この場で1つ考えてみたいと思います。シャオラ。

 

まず、性善説の定義を考えてみる。性善説とは、人は生まれながらに善の心をもっていて、それが周りの環境とかのせいで悪の心が生まれる。みたいな説だと思う。この記事ではひとまずこれでいきます。

私はその説の論拠として「悪役にはストーリーがある」を挙げたい。フィクションの世界にでてくる悪役の多くは、悪に染まった経緯が存在する。

例えば「DEATHNOTE」の魅上(私は仰せの通りに!!の人)。彼はいじめを阻止しようと尽力するも報われず、キラの協力者になった。例えばNARUTO我愛羅。自らが人柱力という人間兵器であるために友達ができず、また父親の指示で信頼していた人に殺されかけたため殺戮マシーンになった。などが挙げられるが、その一方で正義の主人公が善に目覚めたきっかけは、基本的に存在しない。

そもそも''善に目覚める''という表現が不適当な気がする。世界には、人たるもの善たるべし。という不文律が流れていて、何かのきっかけによって悪に''目覚める''のである。だからこそ、悪には悪に染まった経緯・ストーリーが存在し、正義の主人公にはそれがない。なぜなら、人は生まれただけで善なる存在だからである。

ここまで書いてきて、自分の中に反論がいくつもでてきた。

①ストーリーのない悪役、割といる。

②論拠が友情・努力・勝利の世界にしか存在しない。

③人は善たるべしの不文律が存在することは、逆に性悪説を補強するものではないか?

生半可な気持ちで書き始めたら、予想外にガチな空気になりつつあるのでここらでやめにします。再反論や性悪説についても、いつかちゃんと考えてみたい。

とりあえず結論としては、人がもともと善だの悪だの言うよりも、今いい人でいるようにしたいですね。

私は沢山の人から「なんかいい人どまりって感じだよねー笑」と言われてきたので、その点は大丈夫です。きっと大丈夫。

エスカレーターを歩くな

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学校のパソコン 攻める予測変換

 

エスカレーターは歩いたり、ましてや走ったりしてはいけませんと、子供の頃から何度も言われてきた。理由はシンプルで、危ないから。でも今回は、そういう話ではない。私は、エスカレーターを歩くのは''損''である。との論をかねてから脳みその隅っこにぶら下げている、しょーもない拘り男なのだ。今回はそんなみみっちいクソカス野郎が自論を展開していく。ただそれだけです。

ちなみにこれは先日、エスカレーターを歩いてのぼってきた男にぶつかられて、「チッ 痛てぇな」と罵られたこととは、断じて関係ない。チッ 痛てぇな。だぁ?それはこっち側のセリフだろうが!!

…関係ないったら関係ないので、話を始めます。いざ。

 

エスカレーターを歩くことは損である。」

これは一般にはあまり受け入れられていない論だと思う。エスカレーターを歩く人を見たとき「危ないなぁ」とか「急いでるのかな」とかの感想を抱くのが一般的であって、「もったいねー」とは思わない。

では、なぜ損だと思うのか。その答えは、そもそもエスカレーターとはどういうものかを考えることから始まる。一言で言うなれば、エスカレーターとは''突っ立ってるだけで階段登れちゃうマシーン''である(と私は思っている)。しかし、エスカレーターを歩いて登るとどうだろう。エスカレーターは''階段登るの少し速くなるマシーン''に成り下がるのだ。

同様のことが、動く歩道についても言える。''突っ立ってるだけで目的地着いちゃうマシーン''が''早歩き加速マシーン''になってしまう。

機械が頑張って動いてくれてる恩恵を、充分に受けきれていない。これこそが、もったいないの理由である。

では、遅刻しそうなときもお前は歩かないのか?と聞かれたら?答えはノーだ。繰り返すが、私がエスカレーターを歩かないのは倫理感からではなく、損得勘定からなのだ。よって、エスカレーターで急がないことでそれよりも大きな損害(遅刻とか)を被るのであれば、私は迷わずエスカレーターを駆け上がるだろう。

ここまで書いてきて、自分があまりにケチくさく、みみっちい人間であることに半ば失望している。エスカレーターで損だの得だの言うなよ…

これを読んで共感したクソカスドケチえもんは、悔い改めて下さい。そんな生き方、今日っきりやめ。プレモルを買え。ムネ肉を茹でるな。親に仕送りをしろ。そして、エスカレーターは歩くな。

だって、危ないじゃんね。

ご褒美につられるほど甘くない。

○○のライブのチケット当たった~~!!

これを楽しみにテスト頑張る~~!

こういった趣旨のツイートが、ちょくちょくタイムラインに流れてくる。そして私は、この感覚が全く理解できない。

※この記事は、上に挙げたようなことを屁理屈をこねくり回してコテンパンにし、自分の正当性をどうにか保とうとする醜いものです。ライブを糧に勉学に励む健全な精神をお持ちの方に不快な思いをさせてしまうであろうことを、先にお詫び申し上げます。

 

では、本題へ。

先ほど理解できないといった、先に楽しいことが待ってるから今は頑張れる理論。実はこの理論には決定的な欠陥がある。それは、、、

別に今頑張らなくても楽しみはやってくる

そう、これである。

たとえテストの点が悪かろうが、時間というのは万人に平等に流れているのであり、当日になればライブは行われるのだ。何の問題もないじゃないか。

でもぉ、テストの結果が悪かったら、ライブ全力で楽しめないぢゃん…

本当に黙ってほしい。嘘をつくな。

ライブが勉強のモチベーションになるようなヤツがテストの成績程度で落ち込むわけがない。ライブ当日はバリバリに楽しんでるに決まっている。グッズを買って、ほっぺにペイントして、帰りの電車で騒いで迷惑をかけている。そうに違いないのだ。

…失言が過ぎた気もするが、とにかく私はご褒美によってモチベーションを保つこのやり方に共感できない。

分かるとすれば、その課題をクリアすることでしか、その楽しみを得られない場合である。例えば、勉強頑張らないと成績が下がって自分のプライドが満たされない~とかは分かる。うざいけど分かる。

うちも、次のテストで赤点とったらライブ行けないってママと約束したもん!

お前は二度と呼吸をするな。くたばれ。

どうせお前は行くだろうが、ライブに。次は頑張るだの反省してますだのグダグダ言い訳して、そのくせ当日はそんなことケロッと忘れて大はしゃぎするだろうが。だから成長せんのだ。学べ。母の愛を感じろ。

とまぁ、キリがないのでこの辺で、ライブで盛り上がって周囲に迷惑をかける女が大嫌いというお話でした。

…あれ?

 

 

 

 

 

コーヒーは来客の香り

今日の午後、昼食を食べ終えた母がコーヒーを淹れていた。誰かお客さんかな。と思い尋ねたところ、自分で飲むために淹れたとのこと。

それはそうだ。なぜ、コーヒーを淹れる=来客になってしまうのか。

それは、昔からお客さんがあるたびに母がコーヒーを淹れてたからだ。

小学生の頃、玄関のドアを開けたときのコーヒーの香りは、来客の合図だった。

お客さんが来ているときの母は普段の三割増しで優しく、宿題をせずに遊びに行っても許されたし、お客さん用のお菓子の余り(ルマンドが多かった)も食べられた。毎日お客さんがあればいいのにと本気で思っていた。

つまり小学生の自分にとって、コーヒーを淹れる香りは幸せの前兆だったのだ。

コーヒーの香りが幸せな小学生などと言うと非常にオシャレだが、頭の中はケイドロと陣取りであり、口の中はルマンドをほおばっている。全然オシャレじゃない。

予想外にエモい話になってしまった気がするが、とにかく私にとってのコーヒーの香りは来客の合図であり、良いことの前兆なのである。

それなのに、ブラックコーヒーが飲めない。

 

美味しさは値段ではない。

高価なものはおいしい。ほんとに。いきなりタイトルを裏切ってる気がするけれど、高い食べ物はおいしい。

高価なもの is 美味。それは間違いないんだけれど

「高い食べ物ほどおいしい」

これは違うのではないか。この記事は、このことについてあれこれ言うだけのものなので、それでもよいという方は、どうぞ。

 

鶏肉と牛肉を例に考えてみると、グラム50円の鶏肉と牛肉だったら、鶏肉の方がおいしい。というか、グラム50円の牛肉なんぞ食べられたものではない。

一方で、激安バイキングで出てくるようなやっすい鶏肉も、案外イケる。

しかし、グラム5000円の鶏肉(見たことない)と5000円の牛肉なら、牛肉の方がおいしいに決まっている。と私は思う。

ポケモンで例えるならば、鶏肉はむしタイプで、牛肉はドラゴンタイプだろう。Lv15あたりで2段階進化し序盤は重宝するものの、後半強さが頭打ちしてパーティから外れるむしタイプと、Lv45くらいまではイマイチだが、そこから急に強くなり、最後までバリバリ成長するドラゴンタイプだ。これらは、どちらかが優れているわけではない。要は使いどころなのだ。

お手頃価格帯で活躍するのはむしタイプである鶏肉であり、豪華なディナーの場では、ドラゴンタイプである牛肉が力を発揮する。懐事情をよく考えて、鶏と牛を使い分けるのがよかろうと思う。

以上が言いたいことだったんだけれど、初投稿のくせにめちゃくちゃケチくさい話になってしまいました。これを読んだ方は、今日の昼飯の参考にでもしてください。

私はドラゴンタイプが好きなので吉野家に行きます。